daddy-kのいきあたりばったり

70年代青春のジジィが札幌の四季など、肩幅サイズの日常を書いています

2026 さっぽろ雪まつり

今年76回目となる「さっぽろ雪まつり」。この日の気温は五度と、この時期としては珍しい暖かさ。おまけに晴れ間が見える天気もラッキー。難を言えば暖気で通路が…

今年も大小合わせ200を超える雪像があるそうですが、とても全部は見てられないので、今年も大通りを中心につまみ食い。その中で大雪像は5基あって、最初に目に入るのが大通り4丁目の広場。テーマは「祈り」。2021年に北海道・北東北 縄文遺跡群が、世界遺産認定されましたが、モチーフは1975年に南茅部で発見された中空土偶 (愛称:茅空=カックウ) 縄文人で、1万年以上を経たロマン。

余談ですが、私は亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶、あれは古代に訪れた異星人のゴーグルをかけた姿、文明を与えた異星人をあがめた土偶… と思った方がロマンがあるでしょ?と。

7丁目広場には北大の古河講堂(左下)。これは古河財閥の寄贈を受け、今年で150年のになるそうですが、まあ当時の明治政府に対する賂の性格があったのでしょうね。

8丁目は白虎隊の悲劇で有名な、会津鶴ヶ城

仙台支店にいた私の好きな先輩が、「東北人は関西人が大嫌いなんだ。なんせ東北は関西に三連敗してるからね、坂上田村麻呂蝦夷征に始まり、ついこの間の 戊辰戦争だからね」と、 "ついこないだの”に力を入れ、笑わせていましたが案外本心なのかも。

11丁目広場は今年50回目の国際雪像コンクール、暖かなタイやハワイの皆さんご苦労様です。3日から製作が始まり6日まで続くそうですが、どのチームにも栄冠を。

 

他の二つの大雪像と、その他市民参加の雪像です。

今年はススキノ会場もさっと見ましたが、こちらは夜のライトアップと酒が似合うかな?

ウサギをワナで捉えた頃

札幌の寒さのピークは1月下旬だそうで、二月の声を聞くと少しホッとしますが、まだ積雪はピークの時期。そしてまた今夜から大雪の予報。ああ、老体に寒さはもう勘弁 …

と、今はため息で眺めるだけですが、子供の頃は当然ソリで遊んだり、雪を分け入ってウサギやイタチの罠を仕掛けたりと、アクティヴに遊びました。私の育った田舎は太平洋岸に面し、札幌に比べ積雪はさほど多くなかったのもありますが。

イタチの罠は、凍った沢や田圃の水路に仕掛けます。

仕掛けは竹ツッポ (筒) の奥にエサを付ける市販の物を使い、多く獲った記憶は無いのですが、たまに獲れると毛皮加工所に持って行き、買い取ってもらって貴重な小遣いになりました。これはお洒落ではなく、実用の防寒具に加工されたはずです。

一方ウサギの罠は手製でした。まずは山に分け入って足跡探しから。

足跡を見つけたら、通り道のそばの若木をアーチ状に曲げ、適当な枝で通り道を塞ぎ、針金の輪をその若木に括り付け、マッカ (小枝の二股) で押さえた見様見真似の自作です。

ウサギがこの輪に触れると、押さえていたマッカが外れて木が跳ね上り、足などが絡めとられ、逃げられなくなる仕掛けです。ウサギは一度通った所をまた通るので、足跡さえ見つければ、子供が仕掛けたこんな罠でも時々捕獲ができました。

ウサギも襟巻とか防寒具にしたかな?記憶が曖昧ですが。
これも小遣い稼ぎが目的で、一羽分の耳を揃え役所に持って行くとお金が貰えました。

私が生まれたのは戦争が終わって五年後で、荒廃した山の再生や、ベビーブーム後の旺盛な住宅需要のため植林が推奨された時代で、せっかく植えた苗木がウサギや、野ネズミに食い荒らされてしまう。その駆除の助成金だったと記憶するのですが。

命をいただく以上、肉もいただきました。

すき焼きの様な肉鍋にして食べましたが、味の記憶はあまり無く、不味くは無くでも思い出に残る程でも無いのは、きっと血抜きなどの処理が下手だったからなのでしょう。我が家には貴重な肉であり、冬場の蛋白源だったはずなのですが。


毎年根雪の時期が始まると、スノーシュー買って新雪を歩こう。ウサギやキツネの足跡を探してみよう、低くなった小枝の冬芽を見てみよう… なんて晴天の日は気分が高揚し、 そう思うのですが、雪の山を見るにつけ、そんな気持ちもしぼんでしまって…

そんな事の繰り返しで今までズルズルと。もう動き出すのは気持ちが無理……かなぁ?

 ※過去teacupに書いた「野生の味 雪積る頃に(2016/12/23)」に加筆・再掲載しました。

銀色の道

よく積りましたねぇ札幌の雪。久しぶりにたっぷりと降り、最近ちょっと覚えがない量だな?と思ったら、25日の明方までの降雪量は一日としては最多だそうで。

合計の積雪も1mを越えたそうで、スタックした車を助けたり、複数回の除雪で腰がイテぇよォ… などと言うと、もっと豪雪地帯で、重い雪に苦しめられている人の事を思うと、なんのこれしき、そう思って頑張らないといけないのですが。

お隣との塀に "銀色の道" が出来ていますが、この大部分は24日から積ったもの。ハァ

 

銀色の道」というと塚田茂/宮川泰の曲で、ヴィレッジ・ストンパーズの「ワシントン広場の夜は更けて」を思わせるフォーク・タッチの曲を思いだしますが、1966年にダーク・ダックスとザ・ピーナッツの競作で歌われ、ダーク・ダックスの盤の方が売れたはずです。

歌詞には、 ♪ 遠い遥かな道は冬の嵐が吹いてるが 谷間の春は花が咲いてる…

ここは仰ぎ見るような1000mを超える山々に囲まれた場所で、作詞の塚田茂はそんな場所の育ちなのでしょう。そこいら辺の低山だと谷間の方が雪どけは遅いはず…と、私はついつい自分基準で、春の山菜採りに入る故郷の山が思い浮かんでしまって。

詩を受け取った宮川泰は、北海道の留萌生まれ紋別育ちだそうで、そのため、育った紋別鴻之舞鉱山を結ぶ「鴻紋軌道」の鉄路を思い浮かべ、レール跡の水たまりに月の光が映る姿を見て、「これこそ銀色の道だと確信した」と思ったそうです。

この頃は私の育った田舎にも、海沿いに単線が走っていました。日高本線です。

ところが2015年の1月に、低気圧による高波の被害を受け、鉄橋の一部に危険区間があると言う事で、列車はバス代行で対応し、全線復旧にはあと2~3年かかる見込みだとか。 赤字厳しいローカル線ですが、早く復旧してほしいものです。

全線復旧したら久し振りに乗るぞ!カップ酒買い込んで。 頑張れ日高本線

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そう書いたのは2015年の3月の事でしたが、願いは届かず廃線に。

これは2020年と22年の夏の写真ですが、今はただ夏草が生い茂り、銀色の道は錆びた茶色の鉄路に変わり果てようとしていました。

収支の問題、再建の費用などを考えると、止むを得ない判断だったとは思います。

確かに私も何十年も利用した事が無かった。でも高齢者になり、長距離の運転は負担になってきた今、時間が計算出来、安心できる鉄路網は、交通弱者のための強い味方だったのだ、と、今更悔いても遅いのですが。

 ※これは2015/03/09に書いた、「銀色の道 フォーキー歌謡曲(2)に加筆、転載したものです。

 

もう一つの「恋のダウンタウン」

ジジィ世代の二大女優と言うと、吉永小百合倍賞千恵子かな? さゆりストと呼ばれる熱狂的ファンがいたのに対し、ちこちゃんと親しまれた倍賞さんは、その陰で損をしていた感じもありますが、私は「下町の太陽」の倍賞千恵子さんが好きでした。

で、下町=ダウンタウンと言う事で、今日は「恋のダウン タウン」の事を書こうかと。

独り寂しい時は ダウンタウンにいらっしゃい、と歌われる下町賛歌のこの曲は、イギリスのトニー・ハッチが書き、ペトゥラ・クラークの歌で大ヒット。1965年の今日1/23日は、その 「恋のダウンタウン」 が、全米№1となった日でした。

本国イギリスはもとより、世界中の人気者となったペトゥラは、ロックの時代となって初のイギリス女性シンガーだったそうで、多くのカバー盤が出ているようです。その中で個人的に "白眉" と感じたのが、ミラー婦人 (エルヴァ・ルビー・ミラー) の盤です。

その声は、" ゴミ箱の蓋を駆け抜ける ゴキブリの音 " と酷評されるも、彼女のカバーした「恋のダウン タウン」は、1966年3月にビルボードの82位にランクインしたそうで、これは商業主義に対するアマチュア芸の勝利?? … なのでしょうか。

人声の栄光と称えられ(?)た石油成金の奥様が、オペラ歌手に憧れ、財力を持ってカーネギー・ホールでのリサイタルを開催し、レコードまで出してしまったフローレンス・フォスター・ジェンキンズさんの例を思い出します。

ジェンキンズさんはオペラのアリア集だったのに比べ、ミラー婦人は皆が知っていて口ずさめるポップスを、どんどんと歌っていきます。ミラー婦人のヒット曲集です。それだけ誰にでもアラがわかるという事で、ガチでエグい (by エバース町田) のですが…

あえて言えば”オペラ的歌唱”ですが、そのリズム感・音程感は、音痴の私が親しみを覚えるレベルで、難曲「マンデー・マンデー」などはもう、絶品というか捧腹絶倒と言うか… バックのコーラスは先入れかな? 一発録りだと噴き出してしまって歌えないかも。

でも笑っちゃ失礼ですよね。本人は真剣なんだから。

愛すべき「寝床の芸」ですが、アメリカ人はこういうの大好きとみえ、レコードもそれなりに売れたようで、複数のアルバムが発売され、あのエド・サリバンのTVショーにも、出た事があるそうです。

めでたい事です。そしてミラー婦人、F.ジェンキンズさんの人声に栄光あれ!と。

クリス・モンテス / 愛の聖書

今日1月17日はクリス・モンテスの誕生日。

中性的な歌声で「愛の聖書」をヒットさせた人と言えば思い出す人もいるでしょうか?  もっとも1969年のことで、いつも古い昔の話で済みません。

クリス・モンテスといえば、60年代初めに「レッツ・ダンスという曲がヒット。

私はこの曲は後追いで、スウェーデンのグループ、オーラとジャングラーズのカバーで知りましたが、クリスのいかにもあの時代らしいノリ、さすがいい出来でした。※D・ボウイなどの同名異曲と違い、ジム・リーの作った曲

その後新興のA&Mレーベルに移り「愛の聖書」が大ヒット。と言ってもそれは日本だけの話で、ビルボードのチャートに昇った事は無いみたいです。

あの声と少しけだるいムードが、日本人のハートに刺さったと言う事でしょうか?

これは、曲を作ったクリス・モンテスも褒めるべきだろうけど、あの中性的な声を生かし、プロデュースしたニック・デカロの力も大きかったのでは無いでしょうか。

そんな訳で、日本ではこの曲にインスパイアされた曲もあったようで、よく言われるのが辺見マリの「経験」。確かに出だしの曲調はよく似ています。曲を書いた人は洋楽志向が強い人ですが、それを上手く角を丸め、歌謡曲にまとめたのはさすが。

 

もう一つ気になる曲があって、歌手もタイトルもわからないのですが、印象に残るフレーズが、♪なにかが こわいこの恋… と、やはり中性調というか、ボーイ・ソプラノ風の歌い方で、曲調もよく似た曲があったはず。

今になって見当つけてネット等を調べても不明。あの頃はラジオから流れる歌謡曲に興味は無かったし、それは今でもそうだけど、「愛の聖書」を聞く度に何かモヤ~と霧がかかるような気持ちになります。

何とかスッキリさせたいもんだ、とは思っているのですが、いつになったら解消出来るやら? ま、流行歌の宿命だから、そんな熱心に探している訳では無いのですけどね。

ガッタ・トラベル・オン

今朝の札幌はしっかりと積り、身構えていた程では無いにせよなかなかの量。朝の雪掻きを終え、今日は祭日だからとご褒美の昼ビール。もうリタイアした身なので毎日が日曜日なのですが、それでも祭日は何となく許される気がして… 。

さて、今日も古い思い出話なのですが。

私が色々な音楽に興味を持ち始めた70年代、背伸びして聞き始めたジャズ、そして、あのジャズ喫茶特有の、濃いコーヒーを覚えた時代でもありました。

そんなある日、普段行かない店に入った所で、飛び込んで来た曲が、レイ・ブライアントのモントルーでのピアノ・ソロ、「ガッタ・トラベル・オン

ガツンときたそのアーシーで力強い左手、右手が紡ぐフォーキーで、何か懐かしいようなメロディ。フォークやカントリーも好きだったのに、まだ音楽初心者だった私は、初めて聞いたメロディでしたが、とても気に入りました。

元々はホーボーズ・ソングだったらしいので、歌入りのCDも探していたのですが、後になって、フォークのコンピレーション・アルバムに入っているのを見つけました。しかも二組が入っていて、お馴染みのキングストン・トリオにトラベラーズ・スリー

トラベラーズ・スリーは少し馴染みの薄いグループですが、日系人のチャーリー・オヤマがメンバーに入っていて、ポール・クレイトンのVerらしいテンポで、清潔感のある整った歌でいい感じでしたし、ディランも「セルフ・ポートレート」の中で歌っていました。

「この街にも長逗留した、さあ旅立とう」と歌われるこの曲は、元々古いフォーク・ソングで、ウィーバーズが改作し歌ったり、上記のポール・クレイトンが歌いましたが、この曲をビルボードに送り込み、一躍有名にしたのがビリー・グラマー(Billy Grammer)

1959年の今日1月12日付で全米4位のヒットとなりました。又も古い話で済みません。彼はその後はトップ10に入るヒットは無く、チャート的には一発屋で終わったみたいですが、数多のカバー盤がある中、全米4位はおめでたい話でした。※因みにこの時の1位は、チップマンクスのノベルティ・ソングの「チップマンク・ソング」でした。

 

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ダニー&ジュニアーズ/踊りに行こうよ

寒くなってきましたねぇ。今日も札幌は真冬日の予報です。

ここ毎日真冬日が続き、そのお陰で札幌の母なる川、豊平川も流れの緩い部分から薄氷が張り始めています。やがて全面結氷となるのですが、それはいつ頃くるのやら?

さて、1958年 …まだ私は小学校二年生でしたが… 今日1月6日付で、新年初のビルボード№1.ヒットとなったのが、ダニー&ジュニアーズの「踊りに行こうよ」で、これが五週連続となる大ヒットでした。

フィラデルフィアに生まれ、同じハイスクールに通った四人組は、小さなインディペンデントのオーナーに見いだされ、このチャンスを掴んだのですが、ベスト10に入るヒットはこの曲だけで終わりました。 後にバリトンのテラノーヴァはこう語ったそうです。

「ヒットが出た時もう少し真面目に音楽に音楽を学んでおくべきだった。そうすればもっとたくさんの事ができたはず。でも若かったから街を遊び歩いていた。そこらへんのガキと一緒だね…」※と。若い成功者のあるあるかも知れませんが。※フレッド・ロビンソン著 「ビルボード・ナンバー1・ヒット」(音楽之友社)より。

とは言っても当時の私は知る由もなく、初めて曲を知ったのは70年代に入ってから。

映画「アメリカン・グラフィティ」の中で、フラッシュ・キャデラックスとコンチネンタル・キッズが歌うカバー盤で知りました。そう、何回目かのオールディズ・ブームの時です。

遡る1969年に、伝説のロック・フェスティバル「ウッドストック」の中で、シャ・ナ・ナがこの曲を歌っていたと知るのは後の事。当時は三枚組のLPは手が届かなくて。でも今こうしてDVDで見返すと、無秩序と混沌の中にラヴ&ピースが映し出され、川に入り裸で水浴びをする男女、少し離れて愛を確かめ合うカップル… 憧れたあの時代の空気。 70年代青春のジジィには眩しかったなぁと。

 

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